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福島から避難して、今、山口で思うこと

7日(日)宇部で開催された宇部平和フェスタで「福島から避難して、今、山口で思うこと」という題で避難者の思いをお話しました。(A)

 2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故により、福島県から山口県に避難してきて3年3か月になります。
  転勤族だった私たち夫婦は、子どもたちや孫たちがいつでも帰ってこられるふるさとを求めて千葉県から福島県双葉郡葛尾村に移住しました。福島第一原発から32㎞の地点です。小さな自給生活を目指して畑を耕し、庭先で鶏を飼う、穏やかな日々の暮らし。美しい阿武隈山系に囲まれた人口1500人余りの小さな村が、私たち家族の故郷になるはずでした。 

 

 2011年3月11日午後2時46分。突然、携帯電話の緊急地震警報が鳴りはじめ強い揺れが襲ってきました。幸い自宅建物は無事で電気も通じていましたが、一晩中強い余震が続き、眠れないまま朝を迎えました。翌12日午後には電話とネットがつながらなくなり、テレビでは福島第一原発が爆発したというニュースが流れました。その後の政府発表で原発から20キロ圏内は屋内退避とされました。村に水道はなく、我が家の飲料水は山の沢水を浅井戸から汲みあげていますし、家は木造です。チェルノブイリ原発事故の放射能汚染の記憶があったので、いつまで屋内退避が続けられるのか不安でした。しかも、テレビで発表される政府見解は曖昧な内容でこれはまずいことになっているのではないかと直感し、とりあえずの荷物だけを車に積んで郡山に向かいました。 
 市内の避難所にたどり着いた私たちを待ち受けていたのは、緊迫した雰囲気の中で行なわれたガイガーカウンターによるスクリーニング検査でした。除染が必要だといわれ別の場所へ移されたご家族もいました。原発が実は大変な状況になっていたことを肌で感じると同時に、国民に対して安全だと放送していた政府に対し不信感と怒りを覚えました。その夜から3日間、郡山市内の高校の体育館で過ごしました。「原発は安全だと言われて信じていたのに…」という声もあちこちから聞こえてきました。地元の双葉町のメインストリートには「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語が長年掲げられていたのですから無理もありません。 

 3月14日の3号機爆発のニュースは体育館内に一台しかないラジオで聞きました。他に情報源もなく不安が募るばかりでした。娘とようやく電話がつながり、在日米人は原発から80㎞以上退避するように通達がでていることを知りましたが(郡山市原発から60㎞)、市内にはガソリンの在庫がなく留まるしかありませんでした。その後、次女のいる静岡県、その後郡山市内で二度引越し、退職を決めた夫も後任が決まるまでは動けずにいましたが、6月末に私の実家のある山口県に避難してきました。
 被災者向けに用意された県営住宅に住むことになりましたが、福島で少しずつ広がってきた周囲の方々とのつながりもすべて失われ、福島の自然豊かな山間部とはまったく違う環境でまた一からやり直さなければならないしんどさ、夫婦二人だけの年金生活とはいえ生活の場を失い今後の生活再建をどうしたらよいのかという不安、引っ越して一年のあいだは重苦しい毎日でした。
 原発事故の情報をインターネットで探る日々が続きましたが、広い青空、緑濃いあぶくまの山々、懐かしく思い出す村の風景のすべてが色をなくした灰色一色のように思えました。原発の状況や政府、福島県東京電力の姿勢、対応、どれを見ても、もう311以前の状態には戻れない、福島には戻れないという決断しかありませんでした。それからは、ここで新しくやり直そうと気持ちを切り替え、県内の空き家バンクを頼りに落ち着ける場所を探し阿武町に落ち着きました。
 2012年秋に山口県に避難移住してきた方々と山口県避難移住者の会というグループを立ち上げました。福島から萩へ避難してきたご夫婦が孤立感を覚え、東京の娘さんのところへ越してゆくという新聞記事を読んだこともきっかけでした。生活を奪われ、以前の暮らしを今も取り戻せないでいる避難者は、福島県だけで十数万人、そのほかに行政が把握し切れていない東日本各地からの自主避難の方々も含めると相当な数に上ります。メーリングリストに登録しているメンバーの大半は福島県ではなく東京、群馬、神奈川など東日本各地から避難してこられています。ご家族も含めると70名近くになります。皆さんもご存知の通り、放射性物質の飛散は福島県境で止まることはありません。宮城県岩手県、そして広く東日本各地に放射性物質が降下しました。
 縁もゆかりもない土地に母親と子どもだけで避難された方、いちいち産地を確かめて安全な食材を探さなければならないストレス、家族やご自身に鼻血など健康被害がでて避難を決めた方、職探し、家探し、家族の分断、数々の困難を覚悟し子どもを守るため、自分の身を守るために避難された方々の選択は間違ってはいない、それぞれの選択は尊重されなければならない、辛い思いをしているのはあなただけではない、ここにも避難してきた仲間がいるよと伝えたかったのです。
 福島じゃないのになんで関東から避難してきたのかと言われたり、原発避難だということを周囲に話せなかったり、それぞれが深い心の傷を負っています。これまで月一回の交流会のほかにアースデイなどへの参加などの活動をしてきました。これからは県内の保養プログラムを実施しているグループとも連携して、福島だけでなく東日本各地から山口県への避難移住を後押ししていきたい、原発事故は収束していないこと、避難者の存在を行政や周囲の方々へ訴えていきたいと思います。
 原発事故被災者の生活支援をうたった原発事故子ども・被災者支援法が一昨年の6月に成立しました。これは被災者の定住、移住、帰還の選択を尊重し、支援地域を「福島」に限らず、放射線量により設定する、被災者の声を聞くなど画期的ともいえる理念が基本となっていますが、政府が定めた「基本方針」は残念ながら福島に戻る人に向けた支援策となってしまいました。
 「避難区域は福島だけじゃない。 放射能が降り注いだ地域はみんな被害者なんだ。 福島以外から自主避難した人だって移住先で声をあげ続けないと完全に無かったことにされてしまう」。避難者の中からはこんな声も上がっています。  
 福島からの避難者ということで毎年311が近づくとどんなストレスがありますかと取材やアンケートを受けます。私自身、ストレスの中身が次第に変わってきていることに気づきます。事故直後に感じた喪失感や将来への不安が消えたわけではありませんが、今は世のなかの動きがストレスになっています。震災がれき焼却、参議院選挙、東京オリンピック招致決定、原発再稼働に舵を切ったエネルギー基本計画原案などなど、原発事故の風化というよりも、国は原発事故そのものをなかったことにしようとしているのではないかと思えてくるのです。
 原発事故後、仮設住宅に4年近くも住まわされている福島県内の避難区域の方々、やむを得ない事情で県内にとどまっている方々もそうですが、避難した私たちの基本的人権健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は無視されてきました。私たちはいわば国内難民だと思います。避難者を置き去りというよりも、棄てている国のあり方に静かな怒りを抱えています。
 そんななか、今年5月21日の大飯原発運転差し止め請求訴訟の地裁判決に一筋の光を見出したような思いでいます。判決文では、生存を基礎とする人格権が最高の価値を持ち、原発稼働の自由は憲法上の人格権の中核部分より劣位に置かれるべきであり、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失」だとされています。
 私は原発事故の当事者となってはじめて、原子力発電という仕組みがどれほどインチキで危険なことか、どれほど立地地域の人々の心をむしばんできたのか、そして、この国は私たち国民のいのち、一人ひとりの生活、特に未来ある子どものいのちを大切にしない国だということを思い知らされました。 
 国や県が汚染状況や健康への影響を明らかにしていないために、郡山でも福島でも原発事故などなかったかのような日常が繰り広げられています。今、マスクをして歩いている人はほとんどいません。それでも国道を車で走れば突然線量計の数値が0.7マイクロシーベルトに跳ね上がることもしばしばです。放射線管理区域と同じくらい汚染された、ホットスポットと呼ばれる地点もあります。日本の避難区域の年間放射線量の基準はチェルノブイリ原発事故と比較すると4倍も高く、20ミリシーベルト以上は強制避難区域に相当します(注1)。政府は20ミリシーベルトという数字が健康上大きな問題はないとしていますが、これは仕事として放射線を取り扱う人を対象とした年間許容量の上限です。低線量内部被ばくによる健康被害は一切考慮されていませんし、放射線への感受性が高いとされる子どもに適用することは到底許されるものではありません。
 福島県による県民健康調査の今年8月24日発表のデータによると、悪性の疑いも含めて小児甲状腺がんと確定した子どもの数は104人にのぼります。そのうち肺に転移した子どもが二人いました。小児甲状腺がんの通常の発症率は100万人に一人ですが、福島県では100万人に300人、チェルノブイリの汚染地域に匹敵する高い割合となっていますが、福島県原発事故との影響は考えにくいと報告しています。
 子どもたちだけではありません。ご高齢の方々、特養などの福祉施設入所者、入院患者、体に障がいのある方々など自力で動けない弱い立場におられる方々も、震災、津波、そして起こるはずがなかった原発事故。これらの複合災害により避難を余儀なくされ、その結果「避難弱者」として切り捨てられてしまいました。
 原発周辺の特養施設では原発で何が起こったかもわからないままに避難を命令され、行く先もわからないまま、もちろん十分なスタッフも介護用品も食料もないまま長距離バスにのり、ようやく受け入れ施設にたどり着いたものの、環境の激変、不十分な介護体制から多くの方々が亡くなられました。震災関連死と呼ばれる方々です。
 一方、飯舘村にあったいいたてホームのように避難せずに汚染区域にとどまる選択をした施設もありました。この春亡くなった夫の母は震災前からここにお世話になっており、最後の時もホームで迎えました。震災当時、寝たきりで胃ろうを付け介護度5の母を動かすことは困難でした。震災後、ようやくホームと連絡が取れ、とどまるというホームの意向をお聞きした時は感謝の気持ちでいっぱいでしたが、それは同時に職員の方々の被ばくという大きな犠牲の上に成りたつもので心苦しくてなりませんでした。3年のあいだに被ばくを避けなければならない若い職員の方々は辞めていき、いよいよ老老介護になってしまってとおっしゃる職員の方々は雪深い中を仮設住宅から片道50キロも雪道を運転して通ってくださっています。  

 原発周辺の福祉施設で事故後に何が起こったか克明に描かれた『避難弱者』という本からは現場の方々、そしてご高齢の方々の悲鳴が聞こえてくるような気がします。今、川内原発の再稼働に向けて、政府は避難計画を再検討し始めましたが、マニュアルはマニュアルにすぎません。首尾よく避難できたとしても、その先に続く避難生活に避難弱者と呼ばれる方々は耐えられません。幸い自力で避難できた私たちだって、4年近くたっても暮らしを取り戻せないままなのです。
 今、再稼働の争点となっている鹿児島県川内原発から山口県まで300km、玄海原発から175km、伊方原発から130kmとなります。福島の事故当時、原子力委員会委員長は福島第一原発から250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討したそうです。日本全国の原発54基から各250kmの避難範囲を描いてみると、日本中がほぼ避難区域となってしまいます。もう福島だけの話ではなく、誰もが原発事故の当事者となり得るということです。 
 原発の是非を語るときにエネルギー問題の視点から取り上げられることが多いですが、原発事故の当事者、原発労働者、これからの世界で生きる子どもたち、そして避難弱者の方々の人権の問題として、憲法25条「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」が守られているかどうか、他人事ではなく自分のこととして捉えてゆく姿勢、想像力がこれから必要とされるのではないでしょうか。福島の事故後も上関原発の建設計画は白紙撤回されないままです。「今は福島のこと、次はあなたの町のこと」、これは福島県の女性の言葉です。次が山口県とさせないために声を上げ続けていきたいと思います。

注1:

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