東京電力福島第一原子力発電所原発事故から来月で10年になります。
もう原発事故があったことさえ忘れられているかもしれません。原発事故による被ばくを避けるために、福島県からだけではなく東日本各地から多くの人々が避難したこと、今も私たちは避難していることは忘れないでください。
この文章は2019年秋に『やまぐちの自治』誌から依頼され寄稿したものです。ご一読いただければ幸いです。
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★転載自由ですが、引用は下記の通りに記載をお願いします。
◎『やまぐちの自治』通巻126号、山口県地方自治研究所、2019年11月号
原発避難は終わっていない―私たちはここにいます
浅野 容子(山口県避難移住者の会代表)
はじめに
東京オリンピック開催まで一年を切りました。政府はこのオリンピックを「東日本大震災で被災された方々に勇気と希望を与えるものと確信、力強く復興している 我が国の姿を世界に発信する絶好の機会」(復興庁2013年9月13日)と発表してい ますが、原発避難者にとってはどこか遠くの国の話としか思えません。
2011年3月11日に発災した東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所の核事故から8年半が過ぎました。私が当時住んでいた双葉郡葛尾村は2011年4月22日に「計画的避難区域」と「帰還困難区域」に指定され、住民は避難を余儀なくされました。その後、2016年6月に村の「計画的避難区域」の指示は解除されましたが、戻って住める状況にはないと私たち夫婦は判断し、今も避難を継続しています。我が家の原発避難は終わっていません。
原発避難、我が家の場合
転勤族だった私たち夫婦は、子どもたちや孫たちがいつでも帰ってこられるふるさとを求めて、阿武隈山系の美しい雑木林に囲まれた福島県双葉郡葛尾村に移り住みました。2003年に早期退職した夫は郡山に第二の職場を得、葛尾村に週末通いながら三年かけてこつこつとほぼ自力でログハウスを建てました。ここに私が千葉県から越したのが2006年3月でした。畑を耕したり、鶏を飼ったり、里山ののどかな暮らしは原発事故で一変しました。(図1)
3月12日夕方、政府による避難指示の対象が原発から20キロ圏内に拡大し、30キロ圏内は屋内退避地域とされました。木造の我が家は福島第一原発から32キロメートルの山中にあり、飲料水は山の沢水を浅井戸から汲みあげています。チェルノブイリ原発事故時の放射能汚染の記憶があり、屋内退避は続けられない、テレビで発表された政府発表に実はまずいことになっているのではないかと直感し、とりあえずの荷物だけを車に積み山を下り郡山に向かいました。
避難所に着いた私たちを待ち受けていたのは、双葉郡からの避難者に対するガイガーカウンター(放射線量を測定する機器の一種)によるスクリーニング検査でした。緊迫した雰囲気の中、除染が必要だと別の場所へ移された人たちもいました。原発が実は大変な状況になっていたことを肌で感じ、長年住民に対して原発は安全だと繰り返していたのはなんだったのかと、政府に対し不信感と怒りを覚えました。その夜から3日間、郡山市内の高校の体育館で過ごしました。
「原発は安全だと言われて信じていたのに…」という声が館内のあちこちから聞こえました。原発の地元、双葉町のメインストリートには「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語が40年もの間掲げられていたのですから無理もありません。3月14日の3号機の爆発のニュースは体育館内に一台あったラジオで聞きました。他に情報源もなく不安が募るなか、在米の長女とようやく電話がつながり、在日米人には原発から80キロメートル以上退避するように本国から通達がでていることを知りました(郡山市は原発から60キロメートル)。さらに遠くへの避難を考えましたが、当時、郡山市内にはガソリンの在庫がなく留まるしかありませんでした。その後、次女がいる静岡県に一時避難、郡山市内での二度の引越しを経て、6月末に私の実家のある山口県に避難してきました。
福島の山間部とはまったく違う環境で一から暮らしを立て直さなければいけないしんどさがあり、夫婦二人だけの年金生活とはいえ生活の場を失い今後の生活再建をどうしたらよいのかと、避難後一年は眠れず、重苦しい気分で原発事故の情報をインターネットで探る日々でした。
葛尾村の広い青空、緑濃いあぶくまの山々、懐かしく思い出す村の風景も色を失い、灰色一色のように感じられました。国による除染は家の周り20メートルの範囲だけで、すぐ裏手の雑木林は除染されないままです。我が家は標高約1000メートルの日山(福島県二本松市と葛尾村の境界にそびえる山)中腹にありますが、尾根の向こう側は汚染が酷かった浪江町津島地区です。ここに戻って以前のような土に親しんだ暮らしをおくることはできません。ましてや子どもたち、孫たちを呼びよせることは無理です。原発の状況や政府、福島県、東京電力の姿勢、対応、どれを見ても、もう311以前の状態には戻れない、福島には戻れないという決断しかありませんでした。こちらで新しくやり直そうと気持ちを切り替え、山口県内の空き家バンクを頼りに日本の原風景のような場所を探し求め阿武町に落ち着いたのは、2012年春のことでした。
原発避難者とはだれか
原発の過酷事故=核物質の拡散汚染が東日本に広く拡がったため、我が家のような政府による避難指示区域からの避難者だけでなく、それ以外の福島県内の地域から、さらには東日本各地から、無用な被ばくによる健康被害を避けたいと多くの方々が避難しました。山口県避難移住者の会のメーリングリスト登録会員は十数名ですが、避難元は福島県、群馬県、東京都、神奈川県、千葉県など広範囲にわたっています。
復興庁の統計によれば、全国の避難者数は約5万人、福島県から山口県への避難者は83名となっています(2019年8月末)。ところが、これは東日本大震災関連の避難者数です。政府が「原発事故避難者」の定義を行なわず、集計は都道府県の裁量によっているため、避難指示区域以外の福島県や東日本各地からの避難者の実数の把握は困難になっています。原発事故避難者の定義が行われなかったということは、人数も数えられず、実態把握も行われず、生活再建や支援に必要な政策も不十分なまま8年半が過ぎたということです。
この間、2012年6月には原発事故被災者の生活支援をうたった「原発事故子ども・被災者支援法」が議員立法により成立しました。これは被災者の定住、移住、帰還の選択を尊重し、支援地域を「福島」に限らず「一定の基準以上の放射線量」により設定するなど画期的ともいえる理念が基本となっていました。ところが、政府が定めた「基本方針」は放射線量の一定の基準を無視したため、避難者の支援よりも福島への帰還を促す支援策となってしまいました。
国連人権理事会の勧告
事故当日発令された原子力緊急事態宣言は今も解除されないままです。事故前の平常時、一般公衆の被ばく量限度は年間1ミリシーベルト以下に定められていましたが(目標値はゼロです)、緊急事態となったために年間被ばく量の上限は20ミリシーベルト以下に緩和されました。
避難指示解除の基準も年間20ミリシーベルト以下のまま、福島県への帰還政策がすすめられています。政府は20ミリシーベルトという数字は健康上大きな問題はないとしていますが、これは仕事として放射線を取り扱う人を対象とした年間許容量の上限です。低線量内部被ばくによる健康被害は一切考慮されていません。これを、放射線への感受性が高いとされる子どもに適用することは到底許されるものではありません。
憲法第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定されている生存権は避難した私たちにも保障されているはずですが、無用な被ばくは避けたいという私たち避難者の声は無視されてきました。年間被ばく限度を国際法・国内法で定める1ミリシーベルトに戻し、福島の人々の健康に対する権利を尊重せよという声は、国外からも聞こえてきます。
国連には「国内避難民(IDP)に関する指導原則」と呼ばれる人道や人権に関する国際的な枠組みがあります。原発避難者は国境こそ越えていないものの、災害などによりもともと住んでいた土地に戻れなくなってしまった国内避難民(IDP=internal displaced persons)とされ、政府にはIDPを保護する義務があります。避難者は「生活や安全、自由や健康を害するような形で帰還、移住を促進、または強制されることがあってはならない」とされています。ところが、政府の対応はこの指導原則に反しているばかりか、国連人権理事会による度重なる勧告も無視し、住宅支援を打ち切るなど避難者を切り捨てているのが現状です。
やっていいことなんでしょうか!―家賃2倍請求、提訴
住宅は「健康で文化的な生活」をおくるうえで基礎となるものです。震災後、多くの自治体が災害救助法に基づき被災者に公営住宅を提供、福島県も県内の区域外避難者に対する公的支援策として家賃を免除してきました。ところが、県は2017年度末の住宅支援打ち切りを決定、この決定に対し避難当事者や支援者団体からの抗議が相次ぎました。震災後に情報が飛びかう中で首尾よく避難先を探しだし避難できたとしても、最低限の住宅保障でさえ避難先の自治体の判断次第という現状では、原発避難を長く続けることは困難です。
政府や福島県は避難者に自立を促し、避難元の福島県が避難している県民を提訴し追い出そうとする事態も生じています。福島県は東京都内の国家公務員宿舎に入居 している避難者5世帯に対し、病気などで転居が難しい方々の実態把握も行わないまま、2019年3月末での退去を通告、退去しない場合は2倍の家賃を請求するという厳しい選択を迫ってきたのです。この原発避難者追い出し訴訟議案は2019年10月3日の福島県議会本会議で賛成多数により可決されてしまいました。
「やっていいことなんでしょうか!」、これは県との交渉の場で支援者から発せられた憤りの言葉です。国は「災害救助法の実施主体は地方自治体の首長なので、(県の住宅支援打ち切りについて)国がどうこう言える立場にない」といいます。しかし、この県の決定の背景に「期限を定めたほうが説得しやすい」という国の意向があったことは情報開示請求により明らかになっています。国策により造られた原発が過酷な事故を起こし放射能汚染が広がったため、無用な被ばくを避けようとしたから避難したのです。困難な状況におかれた避難者を救うべきは、原発事故の加害者である国の責任ではないでしょうか。
2020年3月末には、大熊町や双葉町を除く帰還困難区域からの避難者に対する住宅提供も打ち切られることになっています。政府や福島県は2020年には避難者はゼロになると国内外にアピールしているように思えます。
国は住民を守らない
避難当事者となって8年半、国は住民を守らないということを学びました。 これは避難者の住宅支援の問題にとどまりません。国や福島県は汚染状況の調査も行わず、放射性物質の健康への影響も否定してきました。福島県県民健康調査によると、2019年3月までに甲状腺がんの悪性ないし悪性の疑いがあると診断された人は218名にのぼります。「県民健康調査」検討委員会は「(この結果に)原発事故の影響は考えにくい」と報告していますが、なぜ「被ばくとの関係がない」と断定できるのか、検討委員会内部からも疑問が出されています。
原発事故により環境に放出された放射性物質は今も東日本を広範囲に汚染し続けています。放射性物質は拡散させず集中管理することが原則です。ところが、国は集められた汚染水や除染土を再び環境中に放出しようとしています。汚染水の海洋放出や除染でできた汚染土の公共事業への再利用などを認めてしまえば、日本中だけでなく、世界の海洋にも汚染が広がるでしょう。
原発事故後の早い時期から、責任逃れ、情報の隠ぺい、被害者の分断など、水俣病問題と福島原発被害の共通点が指摘されてきました。残念ながら、この指摘は正しかったようです。当事者に必要な情報を「調べない、知らせない、助けない」、これが国の姿勢です。
おわりに
2019年9月19日、東京地裁では原発事故を巡り業務上過失致死傷罪で強制起訴された刑事裁判で、東京電力・旧経営陣三人全員が無罪という驚くべき判決が下されました。これに先立つ9月17日、避難者集団訴訟(東京電力福島第一原発事故に伴い、福島県から群馬県に避難した住民が東電と国に損害賠償を求めた群馬訴訟・控訴審)において、被告である国は、避難の継続は「自主的避難等対象区域に居住する住民の心情を害し、ひいては我が国の国土に対する不当な評価となるもので容認できない」と述べた準備書面を提出、原発避難を真っ向から否定しました。
このように、原発事故をなかったことにしようとする力はますます大きくなっていますが、それに抗う避難者の声は小さくとも消えることはありません。各地に散らばった避難者はつながりあい、力づけあいながら声をあげています。私も参加している「『避難の権利』」を求める全国避難者の会」は、私たちの基本的な人権でもある「避難の権利」、「被ばくなき居住」、「貧困なき避難」を求めて活動を続けています。
原発事故当時、原子力委員会委員長は福島第一原発から半径250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討したそうです。半径250キロメートル圏はチェルノブイリ原発事故において避難が必要であるとされた基準でした。全国にある原発54基から半径250キロメートルの避難範囲を描いてみると、北海道東部を除いた日本のほぼ全域が避難区域となってしまいます。原発の過酷な事故が起こってしまった今、もう福島だけの話ではなく、誰もが原発避難の当事者となり得るということです。
(図2)
原発事故の記憶の風化も懸念されます。私たちのような原発避難者を再び出さないために、どうぞ各地の原発避難者の声に耳を傾けてください。
「私たちはここにいます」
(図1)
(図2)